浴室（文）

・イヴァン菊前提のナターリヤ嬢→イヴァン（菊は非出）
・若干エロといえなくもない 
・ナターリヤ嬢崩壊注意報

空から雨が落ちる。


右頬をバスルームの冷たいタイル床に任せ、
身動きできない。身体の節々は酷く緩慢に、
軋む音が軟骨を通って耳奥に届く。
今日は朝から本当に沢山の仕事。
ウォトカを何本開けたのかって？知らない。
でも私きっと、酔っているわ。

「あら、どうしたの？兄さん。」

入り口に愛しい人の影。
びしょ濡れになって、重たく黒ずんだコートを
脱がないまま彼は浴槽に身を投げる筈。
お湯は張ってある。だって解っていたもの。
彼が何時、どこから帰ってくるのか。
分厚いブーツに蹴飛ばされ、硝子瓶が倒れて
回転する音が耳奥に響いた。

「沢山呑んだんだねぇ」

遠い国の、爽やかな夏の匂いを纏ったまま
兄さんは無表情で呟く。
ロングブーツをふらつく足取りで抜いて、
コートを私の方に乱暴に放る。
雨を吸った重い布地に圧迫されて、私はようやく
上体を起こす。
マフラーを解くつもりは無いらしい。
編目の隙間から、見覚えのない青葉。
こんな植物はない。ロシアにもベラルーシにも。

頭痛が酷い。あぁ、吐き気がする。


「何本開けたの？」
「知らない。興味ないわ」

貴方が出かけてから、
地下室から持てるだけ持ってきたのよ。
貴方の秘蔵っ子を。

素面の兄さんは最近見ていない。だから
彼が何本呑んで来たのかも知れない。
ほんの少し、綺麗な眉を潜める。
けれど咎める様子もなく、私に手を伸べて
襟のリボンをするりと解いた。

「全部、空けちゃうなんて」

悪い子だね。
自分でドレスを脱ぐ。
兄さんは少し惚けたように眺めてる、
白熱燈の下のストリップ。
熟知しているのよ、冷たい光の下で
一番綺麗に見えること。

「私は良い妹」

湯に触れた足先から熱が血管を伝わって、
脳はウォトカ以上に酔いを呈する。
一夜の狂気？違うわ、
これは現実でなければならない。
愛しい兄にこびり付く余所者の匂いを
早く落としてしまいたくて、
両手でその胴体を何度も擦った。

「でしょう？」

あぁ、そうだね、と
ようやく目尻の色付き始めた兄さんが
溜息を洩らす。
浴槽に寝そべる大柄な体躯を跨いだまま、
後ろ手で触れてみる。
よかった。兄は私に欲情している、
普通なら吐き気を催すその事実は
涙の出る程の安心感と喜びを私に与える。

そうでしょう？だって
貴方を真実愛しているのは私だけなのよ。
異国の見知らぬ男などでは無く。
貴方にされる事は全て受け入れるし
貴方の為なら何だって出来るわ。
そう、何だって。


ねぇ兄さん、貴方が出かけてから
パソコンを覗き見したの、そうしたら
極東行き往復券の発注履歴
可笑しいわね、兄さんらしくないわ
自分の痕跡を遺すなんて
それ程までに待ちきれなかったのね、
「あの人」に会いにいくのが

もう住所も解っているのよ、苦労したけれど
ねぇ、兄さんはご存知だった？
「あの人」はね、贈り物を断れないのよ、
ねぇ兄さん、きっとそろそろ
贈り物が届く頃だわ、ねぇ兄さん、
とても楽しみじゃなくって？


あぁ、笑い声が止まらない。
徐々に冷えていく麝香の匂う浴槽。
ドレスの袖口から立ち上る嗅ぎ慣れた
火薬の残り香、
けれど兄さんは、途端にすぅと青褪めて
どこか遠くを見たままで震えている。

どうして？邪魔者は居なくなったのよ
これからは、私達ふたり
そう、貴方と私だけ有ればいいのよ
この世界。
なのに、兄さんは
異国の爆発音に思いを馳せたまま
動かなくなる。
その目は私を映さない。
全てはそのためにやったことなのに！


リネンのドレスが無音でタイルに着地する。
ウォトカの瓶はここに来て一言も洩らさず
土砂降りの水音を、翡翠色の部屋に
ひたすら招き入れるだけだった。

空から雨が落ちる。
私達がそれぞれ別の嗚咽を洩らす浴槽は
冷たい水底に封をされたまま、動かない。
動けない。

永遠に。
 

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